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【スポ健 COLUMN】第3号『勝者と強者』

掲載日:2016年10月5日お知らせ , スポーツ健康学科

 リオオリンピック・パラリンピック競技大会が閉会しました。アスリートのみならず、オリンピック・パラリンピック関係者は多くの感動を与えてくれました。一方で、オリンピック嫌いな方は日本だけでなく、世界中にいます。オリンピックに対して感動は覚えず、また、オリンピックの開催によって人生が狂わされた人もいます。オリンピックの負の側面については、昨今、メディアを通して知らされる機会が増えています。スポーツ関係者は今後より一層、オリンピックに対して情熱を持つだけでなく、冷静な視点も持つ必要があると言えます。

 リオオリンピックでは、日本のアスリートだけでなく海外のアスリートの中にも、メダル確実と言われながら、メダルを逃した選手がいました。中でも、テニス界で絶対的王者として君臨するジョコビッチ選手が1回戦で敗退したことには、大変驚かされました。また、金メダル確実と言われながらも、レスリング決勝で敗れた吉田選手にも大変驚かされました。これらの選手は、「力はあったが負けた」、もしくは、「強いが、負けた」と表現されることがあります。このような表現を行う人は、「勝者」を必ずしも「強者」と捉えていない点が浮き彫りになります。「勝者」≠「強者」と考える人は、スポーツを哲学的に考察する学問領域である「スポーツ哲学」の研究者の中にも存在します。海外の研究者であるニコラス・ディクソンは、審判の誤審やプレーヤーによるルール違反、さらには、不運が生じる試合での「勝者」は、必ずしも「強者」ではないと考えます。誤審や不運といった、プレーヤーがコントロール出来ない要因によって勝敗が決定される試合を、「失敗した試合」とディクソンは呼びます。競技上の優越性は、試合の勝敗からだけでなく、直観的・日常的な概念の観点から捉え直すことが必要であるとディクソンさんは主張します。

 一方で、ディクソンの主張に対しては、日本の代表的なスポーツ哲学者である川谷茂樹から批判が展開されています。川谷は、強さを直観的・日常的な概念に依拠する限り、試合の勝敗によって強さを決定することは永遠に不可能であると指摘します。ディクソンの議論では、試合をやらなくても結論は同じであり、試合というツールは直観を追認する手続きにすぎなくなる。直観だけではどちらが強いか分からないこそ、強さを客観的に示すツールとして試合が導入されたと川谷は主張します。強さは試合に先行して実在するのはなく、試合を通じてのみ生成すると川谷は考えます。一方で川谷は、強さが正しく決まらないケースもあると指摘します。そのケースとは、誤審です。ルールに従って正しく勝敗が決定されたすべてのケースにおいては、勝った方が強いとみなすべきであり、勝敗のルールに基づいた正しい決着が強さの決定における必要十分条件であると川谷は主張します。

 紙幅の関係上、ディクソンと川谷の考えをすべてここではご紹介することは出来ません。また、スポーツ哲学の領域においては、ディクソンと川谷以外にも、上記のテーマについて論じている研究者が存在します。スポーツ健康学科では、スポーツ哲学者による研究成果を知ることによっても、スポーツに対して多様な視点を持つ人材の育成に取り組んでいます。

スポーツ健康学科 大峰 光博

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